ホテル、レストランなどホスピタリティ・インダストリに特化したヘッドハンター茂木幹夫(もてぎ みきお/ www.kyotoconsultant.net)の「非首狩族的な」日々。


by Mikio_Motegi

「私の死亡記事」

「・・・死を考えることは生を考えることです。人の業績や人生上のエピソードは、
つねに時代のまわりからの評価にさらされ、それを集約したかたちで死亡記事
や人名辞典の記述がなされます。・・・(中略)・・・しかし本人がどう思って
いるかは別問題です・・・(後略)」

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以上は2000年に文藝春秋より刊行された「私の死亡記事」の「はじめに」から
の抜粋。
同書は各界の著名人102名(4年後の文庫版では12名追加)に依頼し,
自分が死んだと仮定して自らの死亡記事を書いてもらうという前代未聞の
ユニークなもの。

こんな企画に賛同しただけあって、どの筆者もみな諧謔的で退廃的(健康的で
明るい死亡記事があるわけないが・・・)な死亡記事になっている。
文体が三人称なのも、それまでの人生、将来の夢、成し得る業績を客観的に
書き連ねている。

面白いのは死因の大多数が「老衰」「自然死」「心不全」としており、やはり
著名人であっても、長い闘病生活や延命治療は受けたくないのは一般人と
同じであること。

「食べ物を喉に詰まらせて死亡」(泉麻人、落合恵子、南伸坊)、「旅先で
原因不明の死」(桐野夏生、玄侑宗久、高野孟)、「腹上死」(野村万之丞、
毛利子来)等、ある種あこがれのような死に方もあれば、高樹のぶ子や
西部邁のような「自殺」という手段を取る人もいる。

私が腹を抱えて笑ってしまったのは、コラムニスト中野翠の「風になりたい」。
「最後の言葉とするべく、かねて用意の『風になりたい』という言葉を呟いた
つもりが、ろれつが回らず、『粥を食べたい』と間違われ、ムッとしたとたんに
こときれた」というもの。

また読売新聞主筆渡邉恒雄の「カラス駆除中、転落死」も面白い。
「自宅の庭に来るカラスを駆除しようと、桜の大木に十メートルの
ハシゴをかけ、毒入りマヨネーズを盛ったカゴを吊るそうとした際、老齢の為
ハシゴの頂上より足を踏み外し、頭部を強打し死亡」というもの。

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渡邉は政財界に絶大な影響力のある保守系メディアのドンとも称される人物。
それが人生の最終章・集大成である死に際し、このような諧謔で自分を
貶めることができるとは。卓越したユーモアの感覚に脱帽。

またメディアの論客である高野孟と西部邁の記事も面白い。

高野は「馬に乗って出かけたまま、それっきり」として「革命家には二つの
生き方がある。カストロかチェ・ゲバラか、大久保か西郷か。
前者は旧体制を引っくり返した後に新体制の権力者に収まり、次代の
建設に取り組む人。後者はそういうことに興味が無く、次のフロンティア、
死に場所を求めて旅立っていく人」としている。
高野がどちらの人になりたいかは自明だ。

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西部は「自殺できて安堵しております」というタイトルで、自殺の理由を
「虚無の温床である生命それ自体にケリをつける。
それが自分の生にかろうじて意味を見つける最後の手立て」で、「今の世間が
自死の意義をあまりよく理解していない」としている。

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いずれもメディアでのイメージと相当落差があり、意外な面が見受けられる。

反対につまらなかったのが政治家の記事。
元自民党幹事長の「闘い続けた人生」、元首相の「先祖以来の文武両道」、
元自由党幹事長の「自由党幹事長ライフルで狙撃される」など、自己愛と
政治活動の弁明に終始していて、気分が悪くなる。

読んでいると、114名の筆者達は殆どが中年以上で、死について
多少なりとも考える年代であり、死は彼らにとってもやがては迎えるシリアスな
問題なのだ。
だからこそ今限りある「生」をいかに生きるか。
軽い読み物ではあるが、つきつけられた課題は大きい。

さて「私の死亡記事」、夏の間に私も書いてみようかな・・・。
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by Mikio_Motegi | 2009-07-25 14:50 | ブレイク