大勲位の聴いた「冬の旅」
2010年 01月 17日
この曲は、失恋した若者が絶望、挫折、疎外感、失った者への
憧憬を感じながら、凍てつく冬の中を彷徨うという叙情曲だ。
シューベルト最晩年の作で、ドイツ歌曲史上最高傑作と呼ばれる
名曲だ。
その「冬の旅」は、中曽根康弘元首相も好きな曲だという。
第71代-73代内閣総理大臣を務めた中曽根康弘(以下敬称略)は、
言わずとしれた日本の保守勢力を代表する政治家だ。
彼の功績は多々あるが、外交関係では親米、対ソ連(当時)強硬路線を
確立したことが挙げられる。
ソ連が当時ヨーロッパに中距離核ミサイルを配備した時、中曽根は
対抗措置に消極的なヨーロッパの首脳達を説き伏せ、レーガン
元米大統領の提唱する中距離核戦力削減交渉実現をサポート、
「ロン、ヤス」とニックネームで呼び合うほどの密接な関係を構築した。
「大勲位菊花大綬章」を叙勲していることから「大勲位(だいくんい)」と
ニックネームで呼ばれることもある。
彼は第二次大戦中、海軍主計中尉に任官、東京帝大出のエリート
青年将校としてフィリピン・ミンダナオ島やインドネシア・ボルネオ島
バリクパパンに侵攻する中隊を率いた。
逃亡しもぬけの殻になった地元資産家の屋敷を徴収し、リビングに
残された蓄音機を見つけると、持参したSP盤の「冬の旅」を聴くのが
楽しみの一つだった、とある雑誌で述懐している。
(婦人画報2009年10月号)。
徴収した屋敷とは、多分華僑の豪邸だろう。
南方のプランテーションに囲まれた瀟洒な屋敷のリビングで、砲弾が
飛び交い、明日をも知れぬ戦局の只中、中曽根青年将校がソファに
寛ぎ一人シューベルトに耳を傾ける・・・。何ともいえない情景だ。
この時の情景、心情は、私は何となく理解できるような気がする。
中曽根の姿には、私の亡父の姿がどこかオーバーラップするからだ。
父と大勲位は同年生まれ(1917年)、共に群馬県の似たような家庭環境
に育つ。地元の旧制中学を出て上京し、大正デモクラシーや戦前の
教養主義の洗礼を受け、クラシックが趣味という点までも共通している。
選挙区は違うが同世代の群馬県人として何か接点があったようで、
中曽根の直筆の手紙が実家にある事も、私が彼に親しみを感じる理由の
一つかもしれない。一文字一文字が異様に大きく、力強い筆跡が
印象的な手紙だった。もちろん大勲位と市井の一般人である父の人生、
業績を比べるべくも無いが。
中曽根という政治家には、多大な功績とは裏腹に失政ともいえる施策への
批判も数々挙げられる。「政界の風見鶏」とも呼ばれるネガティブな
面もある。
が、彼からは最前線という修羅場を潜り抜けてきた「凄み」のような
オーラを感じる事は確かだ。そしてそれが現代の多くの政治家連中に
欠けている物であることも、また確かなことだと思う。
写真は上から私の持っている「冬の旅」のCD。
バリトンはフィッシャー・ディスカウ。
中2枚は中曽根大勲位の現在と昔。
下はフィッシャー・ディスカウ。いずれも各メディアから。
・・・「冬の旅」は私は最近殆ど毎日聴いている。が、率直に言って、
この曲のどこが魅力で大傑作と評価されているか、私にはてんで
わからないのである。
メロディラインやドイツ語の歌詞は確かに美しいが、意味がさっぱり
わからないし、訳文を見ても「よそ者としてやってきて、よそ者のまま
去ってゆく」とかいう歌詞で始まるし、何だか自分の事を歌われている
ような気がして腹が立つ。
また、「冬の旅」を赤道直下のクソ暑いボルネオ島で聴くというのも、
なかなか感情移入しがたいところではある。
どうもこの曲に対する姿勢ひとつとっても、私は大勲位の足元にも
及ばないようだ。