誕生日の朝を空襲で迎えた男
2012年 02月 19日
当時は月の半分を東京の世田谷・代沢、半分を北区・田端の親類の
家で起居していたが、その朝は田端にいたらしい。
日本の敗戦が色濃い1944年12月、太平洋上のグアムやテニアン島が
米軍により陥落。日本本土がB29爆撃機の航続距離内に入り、そこを
拠点に毎日のように激しい空襲が行われるようになった。
1945年3月10日、東京に最大規模の空襲が敢行された。
ターゲットとなったのは、人口が密集し、且つ町工場が多く軍需品の
生産基地でもあった墨田区周辺。
米軍はまず墨田区の周縁部に爆弾を落とし家屋を延焼させ、炎の壁に
よる包囲網をつくった。人々が火災から逃げられないように閉じ込める
為に。
当日は大陸からの低気圧が関東上空を覆っていた為、強風が吹きすさび、
炎はますます勢いを増す。逃げまどう人々。
火から逃れ、水を求めて荒川や隅田川に飛び込む人も多く、深く冷たい
水に溺れる犠牲者も多かった。
来襲したB29 は325機。投下された爆弾は38万トン以上。
女性、子供を含む一般市民、非戦闘員の死者8万人
(10万人以上とする調査もある)。
米軍による、世界史上類を見ない計画的なジェノサイト=大殺戮が
繰り広げられたのである。67年前の東京で。
その男は、育ての親である親類の手を引き、逃げまどう多くの群衆と共に
北西方向に逃げた。風がその方面から吹いていた為、風上に向かって
逃げたのだ。
もしかしたらその男は、私の亡父は、同時に生まれ故郷の群馬県桐生市
の方角を本能的に目指したのかもしれない。
誕生日。現代に生きる我々の世代なら、きらびやかで華やかな記念の日。
プレゼントを受け取り、高級レストランにディナーに出かける人も多いだろう。
僅か67年前の東京で、熱波と寒風の吹きすさぶ中、逃げ惑う群衆の
阿鼻叫喚にまみれて、27才の誕生日の朝を迎えた亡父。
生前、あの日を「僕が一度死んだ日」と呼んでいた父の10回忌を迎えて。
写真は上から
「爺の散歩:写真集」
(吉野山隆英氏作画 『報われぬ犠牲』より)
森ビルのHPより。
狩野光男氏作画 「東京大空襲」より
毎日新聞HP 「昭和毎日」より 焼け残った両国国技館周辺。
シャンパンのイメージ画像