リア王
2011年 04月 23日
わからなくなり、価値観がひっくり返ってしまうと、私のような凡人が
頼れるよすがになるのは「古典」でしかない。
「愚者は経験に頼り、賢者は歴史に学ぶ」と言うし。
かくして30年以上も前に読んだ「リア王」(シェイクスピア作 野島秀勝訳
ワイド版岩波文庫)を再購入、再読した。
「リア王」はシェイクスピアの四大悲劇の中でも最も壮大なスケールで、且つ
残酷な物語だ。
あらすじは、三人の娘の愛情を試そうとした老王リアは、末娘コーディリア
の真心を信ぜず、不実な長女と次女の甘言を信じ、結局裏切られる。
狂乱の姿で世を呪い、嵐の荒野をさまよい、疲れ果てた父とコーディリアとの
美しい再会も束の間、悲惨な結末が待っている、というもの。
読んでいて気がつくのが、シェイクスピアというと何となく高尚な、
インテリ向けの作品のようなイメージがあるが、実際は違って猥雑な
セリフも数多い。
例えば:
「自然よ、あんたこそ、おれの女神だ。あんたの掟にだけは従う。
(中略)(妾腹の自分が)下賤だって?いや俺たちこそ人目を忍ぶ欲情が
造った自然の産物。それだけたっぷり、心身の養分と激しい活力を親から
授かっているのだ。
退屈、陳腐、飽き果てた寝床の中で、夢かうつつか、あくび混じりの間に
出来た世のアホどもとはどだい訳が違う」(1幕第2場)
「運が向かなくなると、いや、大抵は自業自得にすぎないのに、禍いを
太陽や月や星の自然のせいにする。悪党になるのは天然自然の必然、
アホのなるのは月の影響、ごろつき、盗っ人、裏切り者になるのは
生まれた時の支配星の運勢、といった塩梅だ。(中略)
てめえの助兵衛根性を星のせいにするとは、なんて見事な女郎買いの
言い逃れか!」 (1幕第2場)
「正直者は犬ころ同然、鞭をくらって追い出され小屋に引っ込むのが
定め。口先達者なやんごとなき“牝犬さま”は炉辺でぬくぬく、
臭いおならをひり遊ばしているというのに」 (第1幕第4場)
「親父がぼろ着りゃ子供はそっぽ向き、親父金もちゃ子供は孝行。
運の女神は根っからの女郎、銭の無いのには戸は明けぬ」(第2幕第4場)
「いや、もっと落ちるかもしれない。これがどん底だなどと言っていられる
間は、どん底になっていないのだ」 (第4幕第1場)
・・・もってまわった修辞語などなく、読む者の胸元にズバッと切れ込む
辛辣な言葉の数々。これらこそが大衆劇作家シェイクスピアの人気の
真骨頂なのだと気づかされる。
思えば、人間の歴史は数々の苦難の連続だった。今そこにある苦難も、
昔からの人間の営みの延長線上にあると思えば、少しは慰みになる。
古典を読む、歴史を学ぶことは何も知識を増やす結果になるばかりではない。
私達の目の前に横たわる苦難を乗り越える勇気を与えてくれる効能がある、
と言えるだろう。
写真は全てイメージ。アンソニー・ホプキンスの主演でナオミ・ワッツ、
グィネス・パルトロウ、キーラ・ナイトレイが三姉妹を演じる予定だった
「キング・リア」という大作映画は、残念ながら製作が中断したままのようだ。
ちなみに、小説はともかく「戯曲」を読むのは苦手という人も多いだろう。
が、読み慣れてしまえば簡単だ。むしろ日常使うセリフのやりとりの行間
から舞台での情景を想像でき、あっという間に読涼できてしまう。
是非試してみて欲しい。