スハルトの死
2008年 01月 28日
いつも笑顔を絶やさず「微笑みの大統領」とインドネシア国民に親しまれ、
30年以上君臨した。
また「Bapak/バパッ(お父さんの意味、転じて『国父』)と呼ばれ、先進
諸国からODA/Official Development Aid(政府開発援助)を積極的に
導入、経済発展と国民の生活水準の向上を実現して、政治の安定を
もたらした。彼の最大の功労はインドネシア経済の発展、国民の生活水準
の向上に力を注いだ事といえる。
その一方で、スハルトは1965年の権力掌握期、初代大統領スカルノ
(あのデビ夫人はスカルノの第3夫人)を長期にわたり幽閉し、彼を支持
する数十万人の共産党員を殺害したとされるなど、反対派を容赦なく
弾圧した恐怖政治の代名詞という強烈な一面があった。

私がインドネシアのジャカルタにいた1996-1997年は彼の大統領として
の絶頂期でもあり、日本からのODAも突出して多く、将に我が世の春を
謳歌していた時期といえる。
そんな時、スハルトの講演会が私の勤務していたシャングリ・ラ ホテル
であって、ホテルは厳重な警戒に包まれた・・・筈だった。
もちろん表向きはアーマライト・マシンガンを肩に下げた兵士が数十名、
ものものしく彼を警護していたが、これが全くの「ざる」警備。
どんなに「ざる」だったかというと、例えばスハルトがホテル内を歩く導線上に
ゴミ箱は置きっ放し。撤去どころか中のチェックもしない。
爆弾でも仕掛けてあったらひとたまりもなかった筈だ。
又ホテルボールルームでのスハルトの講演会の最中、宴会場裏の
サービスエリアではその兵士達が床に座りこんでお喋りに興じている。
私など怖いもの見たさで兵士達に近寄り、片言のインドネシア語で
冗談を言い合い、なんとアーマライトの銃口に指を突っ込んで遊んだり
したものだ。
当時私の勤務していたセールス&マーケティング部門には、
インドネシア政府要人の子弟がうじゃうじゃいた。
エリというセールスマネージャの父親は副首相だったし、
リザというPRマネージャの亡くなった父親は元の商工大臣、アシスタント
セールスマネージャのニーナの父親は現職のイタリア駐在大使だった
(ちなみにエリとリザは男性、ニーナは女性)。
また唯一の華僑の娘ジュリアナは、スハルトに多額の献金をしている
政商であるアストラグループの一族という風に、インドネシア政界の
保守派、体制派の巣窟のような部署だった。
よって彼らのスハルト「信仰」は非常に篤く、エリなどは自分のデスク
の上に、父親がスハルトと写っている記念写真をインドネシア国旗と
共に大事に掲げていたものだ。
もちろんシャングリ・ラは政府や有力企業から強力にサポートされており、
日本企業の利用も非常に多く宿泊客の日本人比率が20%を超えていた。
これは国別宿泊比率で常にアメリカとトップを争うほどで、
その日本企業をセールスマネージャとして担当する私も、それなりに
処遇されていた。
思えばいい時代だったなあ・・・。
衛生上、治安上の問題は多かったが、実は私も家内も、海外で過ごした
3カ国(インドネシア、シンガポール、マレーシア)のうち、一番楽しく
鮮明に印象に残っているのがジャカルタでの生活だ。
あそこでの日々は将にChaos/カオス(混沌)と言っていいほどだった。
どれだけ混沌としていたかは追々紹介するが、スハルトの死は
文字通り私達のChaotic な生活をエンジョイさせてくれた時代の死、
ともいえるのである。
今の京都での生活も結構Chaotic だけど・・・。
写真はスハルトの肖像を印刷したインドネシアの50,000ルピア札。
日本円で現在約700円。ちなみに最高額紙幣は100,000ルピアである。

