梁瀬次郎氏の大音声
2008年 03月 14日
オペレーションのイロハを学んだということは何度か書いた。
本日逝去した(株)ヤナセの梁瀬次郎名誉会長には、芝パークホテル
勤務時代に遭遇した強烈な思い出がある。
まだ入社して間もないベルボーイだった頃のこと。
私があるチェック・イン客の案内をしてエレベーターに乗り込むと、
後から先輩のベル・ボーイに恭しく先導されて年配の紳士が同乗してきた。
当時では珍しい丸メガネにちょび髭、仕立ての良さそうなスーツを着こなして
いる。その紳士はホテルで催されているさる宴席に出席するVIP客だ。
エレベーターにはそのVIP客、一組のカップル、チェックイン客、
先輩ベルボーイと私の計6人が乗っていた。
2階でカップル客が降りた。そのVIPの出席する宴席会場は3階である。
先輩ベルボーイは開け放たれたエレベーターのドアを閉めるため、当然の
ごとく「閉」ボタンを押す。
もちろんそのVIP客が早く会場に到着できるように気を使ってのアクションだ。
「ボタンを押すな!」エレベーター内にそのVIP客の突然の大音声が響く。
私も、私が案内していたチェック・イン客もびっくり。先輩ベルボーイは勿論
仰天、顔面蒼白、でも何で怒られたのか分からない。
大音声をあげたVIP客は、私のゲストに目礼し先輩ベルボーイを引き連れ
エレベーターを降りた。
その日のシフト勤務が終わった後、私と先輩ベルボーイを含むシフト担当
全員が宿泊支配人室に呼ばれた。先のエレベーター内でのVIP客との顛末を
聞かされることは分かっていた。
私はようやくそのVIP客が(株)ヤナセの梁瀬次郎会長であることを知った。
支配人が私たちに噛んで含めるように言う。
「いいか、梁瀬様はエレベーターの『閉』ボタンを押されることが大嫌いなんだ。
他のゲストの時はTPOをわきまえてボタンを押してもいい。でも、梁瀬様の前
では絶対に『閉』ボタンを押すな」
あの後、梁瀬氏は先輩ベルボーイにこんこんと説教したらしい。
曰く、エレベーターのドアなんぞ放っておけば2秒で勝手に閉まる。
いやしくも一流ホテルに勤務するなら、たった2秒が待てないような人間に
なるな。そして2秒が待てないような人間も相手にするな。自分の仕事に誇り
を持て、と。
先輩ベルボーイはミーティングの席で梁瀬氏に言われたことを我々に聞かせ
ながら、涙を流していた。
感激していたのだ。自分のような一介のベルボーイに一流ホテルマンの
何たるかを教えてくれた梁瀬氏に。そしてそういうゲストに鍛えてもらえる
環境にいる自分の幸運に。

・・・今後もし私とエレベーターに乗る機会がある人は、気をつけて見ていると
いい。
今でも私はエレベーターの『開』ボタンは押すことがあっても、決して『閉』ボタン
は押さない。
何となれば私は2秒が待てないような人間にはなりたくないし、そして何よりも
2度とあの梁瀬氏の大音声を耳元で聞きたくないからである。

