首脳会議がはじまり、会場であるパシフィコ横浜に隣接する
ヨコハマのインターコンチネンタルホテルのオペレーションもいよいよ
佳境に入った。

私がAPECというとまず思い出すのが、1996年の3月に初めての
海外勤務地としてに赴いたジャカルタのシャングリ・ラ・ホテルでの
着任早々の出来事だ。
総支配人である故ジョン・セグレッティは私を自室に呼び出し開口一番、
「ミキオ、キミのミッションはジャカルタの日本大使館との関係改善だ」
と私に告げたのである。
事前の数度にわたる面接では、私のミッションはジャカルタの日本人
マーケットの開拓、取り込みと言われており、私もそのつもりで
準備していた。
それが「関係改善」とは?
傍らに控えていた営業部長の説明により、1年半前のジャカルタ近郊・
ボゴールで開催されたAPECで、シャングリ・ラは日本の代表団の予約を
締め出した、Kick Outしてしまったという衝撃の事実を告げられた。
もちろん理由もなく締め出したのではなく、ホテルにも言い分はあるの
だが、コミュニケーションの「不幸な」欠如があったのは事実。
しかし日本大使館の怒りは凄まじく、「シャングリ・ラ出入り差し止め、
日本企業の利用自粛要請」という最悪の事態を招いてしまったのである。

これは文書で正式に通達されたわけではない。
おそらく一握りの大使館員がパーティーなどの折に漏らした言葉を聞いた
人が、口コミで日本人社会に流布したものだった。
私は困惑した。アジア通貨危機前の当時のジャカルタは世界中から投資が
集まり、経済は大変な隆盛を迎え「バブル」の様相を呈していた。
だから手薄な日本マーケットを取り込む為に私のようなセールスマンが
採用されたのだが、これでは話が違う。
そもそも日本人のホテル利用が禁止されていたのでは私の売り上げ目標は
達成できず、やがて「お払い箱」になってしまう・・・。
しかし私は開き直り、楽観視することにした。
当時の自社さ連立政権下の出来事であり、またいくら大使館員が怒って
いても、人事異動で2-3年もすれば事情を直接知る人はいなくなる。
元々日本人マーケットに浸透していたという土台があったのと、
決定的なのは、シャングリ・ラには日本料理の老舗「なだ万」がオープン
予定で、ジャカルタの日本人社会から大いに期待されている事は
わかっていた。
私が早速翌日からコミュニケーションの欠如を克服すべく、日本大使館や
日系企業に日参しはじめたのは言うまでもない。
幸いある人を介し一等書記官と会う事ができ、彼が新参者の私に対し
寛容な態度を取ってくれたのはありがたかった。
そして多少の紆余曲折はあったが、期末までにGeographic Chartで
日本人の宿泊者数をアメリカに次いで2位になるまで急伸させる事が
できた時は嬉しかった。

インターコンチ以外にも横浜周辺のホテルで、今のこの時点で私の
ブログなど読んでいる時間のあるスタッフは少ないだろう。
現場を離れた者だけが語れる昔話・与太話である。

写真は上からAPEC横浜のHPより。
1994年ボゴールでのAPEC。
ジャカルタ市内。真中の尖塔のあるビルの直ぐ右手がシャングリ・ラ
ジャカルタ。
APEC参加国。



















